ボルダリングをしていて考えたことをまとめてみようかと。
というスポーツ。
最初は捕まることができるホールドのみ指定されているが、難しくなると足を置くホールドも制限される。
自らの考える身体の大きさと、実際の大きさの間には少なからず誤差が生じている。 難易度が上昇するにつれ離れてゆくホールドとホールドの距離に、果たして自分はあのホールドに届くのか、 どうやったら次のホールドを掴むことができるのかという問いが、課題から登る身体にダイレクトに投げかけられることになる。
必然的にボルダリングは自身の身体の大きさを、対峙した課題を通じて発見/再構築/再定義する行為となる。
腕力だけで解決する課題はとても少ない。腕力に頼りすぎてしまうと途中で力尽きてしまう。 課題が要求するのは腕力の強さではなく、 重心の位置、それと平衡する力の向きと強さに合致する姿勢である。 課題からの絶えない要求に適切な姿勢で応答し続けることができなければ、課題をエレガントに達成することはできない。
ボルダリングはホールドの狭間でいかに身体を据え置くか、 末端に局所的に負荷が集中することなく、全身に負荷が分散し平衡する場所を探し続ける行為である。
課題が存在するということは、課題を見いだし定義した人間(セッター)がいることを意味する。 課題とはすなわち、セッターが登頂、あるいはシミュレーションした軌跡である。
つまり、ボルダリングとはセッターの過去の身体の動作を再現する、または予測した身体の動作を実現する行為である。
課題を達成するための試行錯誤の中で、ホールドの異なる側面を発見する時がある。 ホールドにはさまざまな側面があり、見方、姿勢次第でさまざまな持ち方/使い方ができる。
持ち方/使い方が変化すればホールドとホールドの関係性も変化し、課題の要求する姿勢も変化する。 課題は別の様相を呈する。
ボルダリングとは、ものの異なる側面を見つけ出す行為でもある。
課題を達成するために、途中のホールドを使わない選択肢もある。 既に利用したホールドを再利用することもできる。
課題によって暗にほのめかされてはいるが、設定されたホールドの利用方法は何も定義されていない。 ホールド同士の関係性は、自身の身体に合わせて変更することができる。
すなわちボルダリングとは、自らの身体による再現/実現によって課題を再定義する行為でもある。
チョーク粉は手汗を吸収し滑りにくくするクライミング/ボルダリングの必需品であり、 クライミング/ボルダリングを行うイメージと強く結びついている道具である。
チョーク粉は粉末という物的な特性ゆえ、ホールドを掴む際にホールドに付着する。 つまり自身の軌跡の一部がホールドに転写され、 ホールドはチョーク粉を纏うことによって登る身体の姿勢の一部を記憶する。
ボルダリングとは、先人の軌跡を追いながら、自らの身体の軌跡を遺す行為である。
チョーク粉などによってホールドが汚れる、ホールド配置が恒常化し新規性がなくなる等の理由により、 定期的にホールドは洗浄され、配置が変更され、軌跡は消失し、新たな課題が誕生する。
ボルダリングとは限られた期間の間に行われる、身体的な対話である。
課題が消失しようとも課題に挑戦/再現/実現/再発見/再構築を行った身体は、 各々の身体に実体験として記憶される。 記憶された姿勢や動作は次なる課題の要求、または日常の特定の状況に呼応し、過去の課題の姿勢や動作が再出現する。
ボルダリングとは、新たな身体を見つけ、身につける行為である。